見世先@結城



土蔵造りの「見世蔵」は、商いをするための建物。

結城の見世蔵は、庇の先に繊細な格子戸をはめたものが多い。

あるいは、内側で戸締りとして、庇の下を開放している建物もあった。側壁に格子戸がはまり、庭との出入り口にしている。

どちらの建物にも、レトロな電灯がついていた。
また見世先の足元は、雨でぬかるまないように、と来客への心配りが感じられる。
道路がアスファルトに舗装されていく中で、昔ながらの敷石で仕上げてあるのを見ると、見世構えがより立派に感じますね。

栃木市と福田屋と景観と

昨晩、高校同級生のgoto氏との雑談で、栃木市の福田屋が閉まっちゃうらしい、という話しをしまして、、、

高校時代に福田屋へよく買いに行った、「めんたいこフランスパン」に触れ、、、

あそこの「めんたいこフランスパン」が一番美味しかったよな!と意見が一致するなど、福田屋が閉まってしまうことに、ハンパない寂しさを感じたオトコ二人、、、

(福田屋の記事など)
http://blog.goo.ne.jp/nishi_hiroshi_24/e/0fbe857d0170135ff9fefe911d6684d6

あの旧街道沿いの、歴史的な商業基盤をもつ町並みの中に、1990年とはいえ福田屋が開店したことは、栃木市らしさだと僕は面白く思っているし、

来年でも栃木市に引っ越して、福田屋へ買い物に寄っては町なかを散歩して帰る、なんて生活を送ろうかと考えていたのもあって、実際に“福田屋へ買い物”というのも、町なかを歩き、巴波川や県庁堀で佇んだり、寄り道したりといった生活の循環や情景を生んでいるのだと思うので、

仮に栃木市が重伝建になったとして、福田屋の建物が景観上好ましくないとされた場合、福田屋があるからこそ培われてきた景観(それは情景と言ったほうがより適切)を見落としていることを、「蔵の街」を期待して来る観光客や、過剰なレトロ景観保守論者に投げかけてみたいもんだ。

福田屋の上階から眺める栃木市の旧市街、特に栃木病院のあたりの眺めはなかなかで、良い視点場でもある。

“愛着”のもてるまちづくり、にむけて

とにもかくにも経済が右肩上がりに成長し続けてきた間は、“消費”が生活行動の中心だった。
そして現在はといえば、右肩上がりの傾きにあったグラフが、横這いに描かれるような成熟した経済期の門口にあって、“消費”はかつてのような経済を動かすほどの活力をもてなくなった。
このような時代において、私たちの生活行動は、いったい何処へ向けられていくのだろうか。

個人的な想いを言えば、それは“愛着”に向けられていくのではないだろうか。
実際に、物を慎重に選び購入する、という購買スタイルの兆しは既にあって、地の物にこだわるとか、デザインの優れたものや使い勝手で選ぶとか、行きつけのカフェでお茶をするとか、こうした購買スタイルは、“愛着”の表れだと思うのです。
「私にとって、これは必要」とか「これがなくなっては困る」といった感情が働くなら、それは間違いなく“愛着”だといえます。
きっとこうした感情は、まちづくりにも広げていけるでしょう。
その支えとなる1つは、やっぱり“歴史”でしょうか。


“歴史”が“愛着”の支えとなる。


我ながら良いですね。

“愛着”から生じる、「私にとって、これは必要」とか「これがなくなっては困る」といった、応援していますよ!投資によって、地域内での、いや地域相互に手を取り合い、小さな経済を動かしていくことが、これからは必要だと思うようになりました。


過去のブログ<『働き方革命』から、“この町への愛着”へ>:
http://d.hatena.ne.jp/mach-i-naka/20100724/1279955094

“水路”上観察

水路の上という空間が、法律上どのように扱われているのかはよく知りませんが、家主にとってそこは空白であり、ややもすればその空白は、家庭の延長として当たり前の顔をして・・・いやもう我が物顔であるのが、面白いのです。




『働き方革命』から、“この町への愛着”へ

駒崎弘樹さんの、『働き方革命』(ちくま新書、2009)を読みました。
表題にある通り、「働き方」を見直し、「働く」ということをライフビジョンにまで拡張して考えてみると、どのような効果が得られたか、自身のエピソードとともに綴られています。
駒崎さんの考える「働く」とは、本来もっていた「傍を楽にする」という意味で捉えれば、職場で「働く」以外にも、家庭で「働く」、地域で「働く」など、他者への貢献、地域社会への関与も含めてこそ「働く」である、とされます。
これらを実行するために、職場での「働く」をスマート化し、(可処分所得ならぬ)可処分時間を増やし、その時間をライフビジョン達成のための「働く」に投資する、という理想を描いています。
まず、職場での長時間労働について、長く働いただけ知的生産性が増える、という考えは正しくないとされ、これは自身の経験に即して語られていますが、簡単にまとめると、次のようになります。
朝から寝る直前まで働く、という働き方を止め、9時〜18時の定時を守る働き方に変えた。「仕事のスマート化」を図った結果、夜の空き時間や土日には、家庭のために「働き」、また地域活動のために「働く」というライフスタイルが実現できた。
このように、職場以外での「働く」時間を持てるようになった効果として、家庭では自身のパートナーと話す時間が増え、今までは職場的な「レポート・トーク(=結論から話す)」を会話にも求めていたのに対し、「ラポート・トーク(=プロセスを共有する)」という対話を楽しめるようになった。そして、家事を分担し、お互いに仕事以外でのライフビジョン達成の時間を持つことができた結果、それが地域活動にも表れるというサイクルを生み出せたそうです。

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さて、『働き方革命』にはこんな効果もありました。夕方や土日など、日が明るい時に自由な外出時間を持てた結果、町に対する“気づき”があったそうです。
それは、時間があるからこそ気に留めることのできた、家の近所にある石碑を見つけ、この町の“物語”に関心を持った、というお話しです。以下、引用すると、

「 そんなドラマを知ると、僕はこの町に特別な感情を抱かざるを得なくなる。今までは公園があって、その横にコンビニが、というような位置関係が中心だった町に、時間という軸が組み込まれ、立体的になる 」


この町が歴史的に持つ、だけれど今まで知らなかった物語に気がつくと、今まで退屈だった風景が色づき、物語を帯びて目に映り、前を通り歩くたびに気に留め、それらは“この町への愛着”へと繋がる、ということ。
この町との付き合いが、公園やコンビニなど施設の「位置関係」ではない、「ラポート・トーク(=プロセスを共有する)」のような“対話関係”へと発展したことが重要です。そして、こう続きます。

「 僕は知ったのだった。知らない人や知らないこと、知らない物語、発見と感動と冒険は、遠くに行くことで得られるのではなく、向こうから訪ねてくるのだ。僕たちが心のチューニングを合わせることで、向こうから訪れる。チューニングにかかるほんの少しの時間を確保すれば。働くことを狭く限定せず、僕たちのあるべき人生の姿を形作る作業全体を“働く”と定義すれば 」


身近な地域の中にもたくさんの「発見と感動と冒険」があり、それは「心のチューニング」の合わせ方次第だ、というのは大変共感しました。
ほとんどの働く人々にとって、日常の大半を占めるのは職場で「働く」時間ですが、もっと広く「働く」との付き合い方を考えることは、仕事と生活の双方に、新しい気づきを与えてくれるのかも知れません。
スイッチのオン・オフではなく、ダイヤルのつまみ具合(「チューニング」)で仕事と生活を調整するような「働き方」を実践していきたいと強く思いました。


『働き方革命』と、“この町への愛着”は、深く深く関わっていると考えられそうです。僕にとっては、取り組むべき新たな課題ができました。