煉瓦を摂取した町並み
以前、深谷宿を訪れたときに、町家の側壁・袖壁に煉瓦を用いた建物を、一種の洋風摂取として考えると興味深い、ということを書きました。
深谷については、こちら:
http://d.hatena.ne.jp/mach-i-naka/20100707/1278509993
町家の側壁・袖壁というと、いわゆる「うだつ」にも当たるものです。ここは、建物を飾る部位として重要な意味をもつところなので、ここに煉瓦を用いるということは、何かしらの店主の特別な気持ちが表れている、といえるでしょう。
さて、こうした形式の建物で、似ているものがあったな、と思い出したのが、長崎・壱岐島の勝本浦にある旧・松本薬局の建物です。
旧・松本薬局:
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/bunkazai_print.php?id=574
また、少し調べていたら、隣の国にもよく似た造りの建物がありました。釜山のチャガルチという地区の、乾魚物市場通りにある町家・長屋です。
(写真は持っていませんので、リンク先をご覧下さい)
かつて朝鮮通信使は江戸へ向かうに当たり、釜山から発ち、海路を行く途中、対馬、壱岐へ立ち寄り、さらに玄界灘を下関、瀬戸内海と通ったのち、大阪・堺で上陸、陸路を京都、近江から東海道へ、というルートを通りましたが、なるほど釜山は古くから日本と交易のある町でした。
チャガルチの町並み(pdfファイル、P.40あたり):
http://www.urc.or.jp/syuppan/kenhou/documents/19FukuokaBusan3.pdf
また、釜山の町並みを見ていると、建物の造りが長崎や前述の壱岐島のものとよく似ています。軒の出が浅く、2階部分が高い。勝本浦は朝市で賑わいますが、その光景もチャガルチの市場と似ているように感じるのは、やはり町並みの建物が似ているからでしょう。
長崎の建物:
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/42148323.html
壱岐島・勝本浦の朝市:
http://tabisuke.arukikata.co.jp/mouth/56920/image
煉瓦という素材は、近代という時代の気分、そして西洋好みを醸すものとして、様々な意味を含んだ素材のように思います。それ故、煉瓦を基調に新しく拵えた建物よりは、町家という既成の建築形式に、好みとして摂取された煉瓦の方が、普請された所有者の複雑な気持ちが溢れているように思います。
そもそも洋風の建物を新しく拵える、というのは当時の人たちにとってどんな気持ちの表れといえるのか、とても関心があります。
予断ですが、日本で最初の煉瓦生産を始めた場所は、大阪・堺だそうです。
0711 ウォーキングイベント@藤岡地区
季節がらの雲天のもと、藤岡地区を歩きました。
ここのところ、様々な地域で輩出された近代の実業家が、どのような産業に尽力していたのか、それによって彼らの地元や近隣地域の町並みが、どのように移り変わっていったのか、に興味が湧き、近代の物語を読むようにして町を歩く楽しみを覚えつつあります。
今回の藤岡地区は、岩崎清七が生まれた町。彼は、森鴎村・福澤諭吉・渋澤栄一など、歴代の著名人と面識があったとされている。藤岡地区に今も残る生家は、天保13年(1842)に清七の祖父・清兵衛によって、「銭屋」の屋号で、醤油造りから始まった。そして、渡米ののち帰国した清七は家業を継ぎ、明治22年(1889)には東京・深川で創業、米麦類卸売業を中心に扱い、大正8年(1919)に株式会社岩崎清七商店となり、現在に至っている。
(株)岩崎清七商店:
http://www.s-iwasaki.jp/akigyopage0420/sougyoshapro/asougyoshaprofile0420.html
>藤岡地区に残された岩崎清七生家
>同、煉瓦造の煙突、レールも残る
>門柱・腰壁などに煉瓦を用いている
岩崎清七が面倒をみた人物に、宮島清次郎がいる。宮島は、佐野市(旧・安蘇郡飯田町)生まれで、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男である。わざわざここに書いたのは、宮島は1950年に母校・宇都宮高校へ鉄筋コンクリート造の図書館を寄贈、そして当面の維持費まで寄付した。図書館は「報恩館」と名付けられ、現在も学生に利用されている。
宮島清次郎:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B3%B6%E6%B8%85%E6%AC%A1%E9%83%8E
街道沿いの町並みは、簡素な造りの建物が多かったように思う。藤岡地区に詳しい職員の方に伺った話だと、渡良瀬川上流からの順流と、利根川の逆流によって大規模な洪水に幾度も見舞われてきた地域であるため、いつ流される危険にあるか分らない建物には、お金はかけない、贅沢しない、このような慣わしがあるそうだ。
また、隣接する板倉町などに見られる「水塚」は、藤岡地区では見られないそうだ。
水塚について:
http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage/www_master/int03.html
そしてもう1点、詳しい歴史は分らなかったが、(株)藤岡スレート工業という企業があり、藤岡地区の町並みはセメント瓦を葺いた建物などが多い。
>塗屋造り(見世蔵に比べ塗厚や塗り籠める部位が少ない)町家
>藤岡地区では(現存する限りで)数少ない洋風建築、装飾は見られず小品ではあるものの、藤岡地区の事情を物語る貴重な建物だ
>街道の南端のほうにあった、草葺きの町家
藤岡地区の特色として、水の出る(洪水の多い)地域だったため、街道の通るような旧い土地ほど、周囲より高いところにつくられている。そして、街道も幾度か屈曲したり、多少のアップダウンが見られる。
街道に面して、主屋と門を構えた家が多い。
街道に沿った町並みの裏手は土地が一段低くなるので、そこに建つ家々の2階部分が街道から見えることになる。さらに後背の土地はもっと低く、高地からの見通しが良い。
>街道から見ると、裏手の低い土地に建つ家々の2階部分が見えることになる
>高地からの見通し
また、街道東側の町並みの裏には、かつての花街のような一角があって、趣のある旅館や茶屋だったといわれる建物(僕は今回見逃した)が残る。
>かつての花街のような一角
>旅館の建物
>少し洋風がかった建物
街道から東に行くと繁柱寺というお寺がある。こちらの境内は雰囲気が良く、本堂の前に藤棚があって5月に来るのがオススメだそう。
また、繁柱寺門前を東西に横切る道には、以前は幅の広い水路が流れていて(今は暗渠になっているが)、この道を西へしばらく行くと藤岡神社ある。この神社は鎮守の杜と呼ぶにふさわしい、趣のある神社だった。
今回の集合は東武藤岡駅前、駅舎は3代目とのことだが、母屋の周囲に庇がぐるっとまわり、旧くの木造駅舎らしい造りだ。
0708 ウォーキングイベント@大平地区(富田宿)
7月4日(日)のウォーキングイベントは所用により参加できなかったので、補習として独りウォーキングを実施した。場所は旧・大平町にある例幣使街道・富田宿、初めて歩く町だ。
町なかに入ると、まず緑が多いという印象。向こうの山並みが近く、また敷地の裏手に木々が茂る屋敷が多い。街道に面した歴史的建造物はやや少ないものの、敷地中ほどに建つ造りの良い土蔵が散見された。ただ、奥まって建つため写真に納めづらい。
>まわりが壊され、剥き出しの土蔵
>荒れた屋敷地の中の土蔵
>後述する町家の土蔵(3階建てかも)
街道は南北というよりは南西―北東方向に緩やかに湾曲しながら延びている。この緩やかな湾曲によって、進行方向にはアイストップを伴う。面白いのは、ちゃんと要所には旧い建物が残っていて、「お、ここからでも見えるなぁ」と距離を測る目印になっている。特に、鮮やかな水色の旧・大平下病院の建物はよく目立つので、この町のランドマークですね。
>造りの良い洋風建築、木々の生茂る屋敷、向こうに土蔵造りの家屋が見える
>少し進むと旧・大平下病院の洋風建築、先述の土蔵造りの家屋
>反対から、旧・大平下病院、一緒に見ると、手前の新しい建物もそれっぽく見える笑
>同じく反対から、木造の店舗と、向こうに旧・大平下病院が見える
>大平下駅から延びる道と例幣使街道の丁字路
>脇道から例幣使街道へ、向こうに山並みと、旧・大平下病院が見える
次に、建物を取り上げます。
まず名前は分からなかったが、造りの良い洋風建築。保存状態も良い。
そして、旧・大平下病院。
いわゆる町家。
>西日の差す店先、ガラスに飲み物のシール(商品名を失念)、子供たちはここでたむろったのだろうか
旅籠屋らしい町家。
>今は塀で仕切られてしまった店先を覗き込む、通り庇は出桁・持送り、細やかな格子、敷石
脇道には、よく見ると草葺きの民家が一件。
よく分からないが面白い造りの建物。
個人的に1番の建物。店先の木(どなたか名称を教えてください)を対に構えるのが面白い。
毎度のことながら、西側の敷地の背割りを水路が流れていた。
大平地区はぶどうが有名だが、意外に町なかでも栽培していた。
歩道に埋まった、これは切り株でいい?であれば、道路拡幅前の名残り(穿ちすぎかも)。
井戸なんかも。
おわりに、聞いた話では道路がまだちゃんと舗装されていない頃(昭和40年頃までか?)に、この通りをトラックが行き交う度に泥が跳ねるのを嫌って、街道に面して塀を建てた家が多いらしい。それがブロック塀なことが、景観的にはもったいないよね、というお話し。
そもそも、昭和中期にここを行き交ったトラックというのは、ドコゾのナニをドチラへ運ぶものだったのか、その方が気になる。ブロック塀が切実な対処法として町並みに現れていることの方が、景観云々よりも面白く思ったりもして。
0629 中山道深谷宿
中山道深谷宿にある、深谷シネマを訪れた。深谷宿には、2007年に中山道の宿場町をテーマに卒論をまとめる際に訪れて以来、4年ぶりの再訪で、何だか懐かしく、嬉しい。
前回訪れたときの記憶では、旧くて造りの良い建物が散見される町並みで、煉瓦を用いた建造物が多くあったという印象。そして、旧銀行らしい建物にあった深谷シネマのことが思い出される。
今年、この建物は前面道路拡幅にあたり取り壊されることとなった。そこで、現在は七ッ梅という旧酒造の酒蔵を映画館に改装、ここへ移転となったのだった。
>深谷シネマ → http://fukayacinema.jp/
当日は「深酒シネマ」というイベントがあり、“バスターキートン無声映画上映ピアノ伴奏”と、僕にとっては全く聞きなれない内容が興味深く、企画者の方とお会いすることを楽しみに伺った。実際に、映画の進行とピアノの生演奏のやりとりは楽しく、嬉しい体験だった。
企画者の方のビジョンも勢いのあるもので、刺激を受けた。また、深谷シネマ館長はじめフィルムコミッションの方々のお話し、旧・七ッ梅酒造の敷地を下見に来ているロケハンのスタッフが来られていたなど、深谷と映画の関係は興味深かった。深谷は、映画の撮影場所としてよく利用されるそうだ。深谷に残る歴史の色濃さがウケているのだろうし、建造物は傷んだそのままに、変に脚色されず自然なところがきっと良いのだ。しかしもっと重要なことは、民間で活動しているフィルムコミッションの仲立ちあってこそだという。時に自らエキストラとして出演するなど、彼等の活き活きとした取り組みが、深谷と映画をより強く結ばせているのでした。育まれてきた資産をもっと上手く、円滑に運用する術を考える、とても大切なことを再認識した。
>深酒シネマ → http://xn--bdkla7gya.com/
今回は少し時間不足で、余り町の中を歩いてまわれなかったが、それだけでもたくさんの魅力的な建物が見られた。
深谷は、見世蔵と煉瓦を用いた建造物が多いという点では、茨城県の古河などと雰囲気が似ている。古河の場合、隣接する野木町に下野煉化製造会社があり、深谷には渋沢栄一が創設した日本煉瓦製造会社がある。両町は近代を代表する建材の生産地であるという点で共通する。
>煉瓦について詳しい:
http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/fukaya.html
また、外壁をモルタルで仕上げた建物も多い。これも調べてみると、お隣の本庄宿には諸井家という旧家があり、県指定文化財になっている。ここは、明治12年(1880)頃に諸井泉衛が横浜の洋館を手本として建て、本庄宿第1号の特定郵便局だった。そして、ここで育った諸井恒平はのちに「セメント王」とよばれ、姻戚関係のあった渋沢栄一が彼の面倒をみた。ここに本庄宿と深谷宿を結ぶ近代の物語があり、セメント・煉瓦を多用した町並みが、それを物語っている、と言っても良さそうだ。
>諸井家について(本庄市HP):
http://www.city.honjo.lg.jp/kurasi_info/kankou/rekisi/old_honjo/h_kindai.html
>諸井恒平について:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E4%BA%95%E6%81%92%E5%B9%B3
>煉瓦蔵とモルタル仕上げの店舗、シックな色合い
>モルタル仕上げの店舗、昔の時計店?写真館?のようにも見えるが・・・今はお弁当屋さん
本庄宿の諸井家は、町家の裏にヴェランダを設えた珍しい造りとして知られるが、前述の旧・七ッ梅酒造もなんとヴェランダを設えていた。とすると、この地域には、他にもヴェランダを摂取した町家があるかもしれない(という期待が湧くのは当然)。表通りを歩くだけでは気づけないところが、探究心をくすぐりますヨネ。また、町家には「うだつ」のように袖壁をつけるものも多く、煉瓦を材料に用いるあたり、これも一種の洋風摂取といえよう。
>ヴェランダについて:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80
さすがは中山道中きっての宿場町であり、実業家を輩出した地域だけある。西洋式の建材を生産しながら、旧来の建築形式に西洋趣味を好んで摂取したからこそ、複層した豊かな文化が醸成され、深谷らしいまちの匂いが漂っているのでした。
建物を撮ろうとカメラを構えていると、遠慮して立ち止まってくれた和服姿のおばさまに話しかけられた。聞くと、四国から来られたという。おばさま曰く、観光を楽しみに来たのに、地元の人に見所を・・・と聞いたら、何もありません、というような言葉が返ってきて、遣る瀬無い気分だったそうだ。
目の前の建物を話題にしつつ、地元の人には我がマチ自慢をしてもらいたいですね、と言って別れたのだった。
コンテンツ・ツーリズム
増淵敏之著『物語を旅するひとびと―コンテンツ・ツーリズムとは何か』(彩流社、2010/04)
http://www.amazon.co.jp/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%82%92%E6%97%85%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%B3%E3%81%A8%E2%80%95%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E5%A2%97%E6%B7%B5-%E6%95%8F%E4%B9%8B/dp/4779115086/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1278428720&sr=8-1
0620 ウォーキングイベント@栃木地区
栃木地区でのウォーキングイベントが終了、薄曇りの天気ではあったが、気持ち良くまちを歩いて回れた。
当イベントの目的は、地域の魅力を再発見する、というものだ。今まで気づかなかった、良いモノ、良いトコロについて、改めて認識を深める機会であり、「新しい眼を持つ」ことの楽しさに気づけるイベントではないだろうか。
文化財とは、指定や登録がされて価値がでるというものではない。その土地に住む人々が、「これは大切だ」と思うものは、すでに文化財と呼びうる価値をもっている、ということであり、まちを歩くことでそういった認識が広がっていくことも期待したい。
個人的には、例幣使街道沿いに建ちながらも、宿場町エリアから外れていて目立たない、染物屋(京染)と水路をセットで見られる風景が気に入っている。この水路の流れを染物に利用したかどうか、ずっと気になっている。Sさん曰く「利用していた」そうなので、店主にもお話しを伺ってみたい。
今回はネットワークとちぎさんの方々にとっては地元開催であり、頼もしいガイドのおかげもあって、いつもよりもさらに一歩踏み込んで、栃木のまち歩きを楽しめた。
まず、効果的なガイドというのは、眼前にある風景には「どんな意味が含まれているか」を引き出しながら話すことだ。
例えば、ちょっと造りの凝った建物があったとして、それはどんな人物が住んでいる(いた)のか、どんな趣向が凝らされているのか、こんなことを2言3言聞くだけでも、見る焦点は定まり易く、その風景を「了解」することにつながる。
また、ガイドの内容は、その土地に精通していなくてもいい、必ずしも歴史を詳しく語らなくていい、勘づいたことから話題をつくりだせばいい、というところまでがんばりたい。
文化的なものは、固有性だけが全てではない。似ている例はたくさんある。自分のまちの例や見たことのある例でも良いから、知っていることを話し合えばいい。何が眼に映るかは、各々の経験や知識と深く関わっているから、固有の(模範解答的な)情報を知らなくても、そこで各々の経験談の交歓が生まれることも有意義なことだ。それだけでも、漠然と眺めていた風景は、各々が自分のものにできるはずだ。
>左手は例幣使街道、右手は水路を狭めて通された道
>小道の奥行きに引き込まれる
同様に、今歩いている道はいつ頃できた道なのか、ということが予め分かれば、いつの時代の名残りがあるのかと、ある程度予測がつくので、風景を掴まえ易くなる。この道を行くとどこの地区へつながるのか、という話題は、お互いの地区の接点がどこにあるか(生活行動範囲など)、という共感をよぶかもしれない。
>この交差点はかつて丁字路(枡形)だった。正面の道は昭和初期に開通、右手の道は壬生へ通じる旧道、左手は例幣使街道、正面の建物は旧・清水屋旅館か?
>ゆるやかに湾曲する旧道、栃木と壬生をむすんできた
>昭和初期に駅前大通りとして開通、先で例幣使街道と合流する。模型店の隣にある、店先に松を構えた小料理屋は、昭和初期の駅前大通りの雰囲気を残しているのかもしれない
そしてやはり、思い出話を語りながら歩くのは楽しい。生活についての話題は、世代間の差は多少あっても、地域間では大差なく共感できることは多いだろうし、違っていることの驚きを話し合うのも、それこそまた盛り上がる。「今はなくなってしまったもの」そして「今は使われなくなってしまったもの」を話題に取り上げることは、まちの記憶を主観的な物語りに仕立て上げることであり、個人の体験をもとにした即興の物語りには、趣がある。
>子供たちの憧れだったという模型店。ちょっと高級だったため、子供たちでは近寄りがたかったという。入り口上部に掲げられたプロペラ看板が面白い
「今はなくなってしまったもの」を語れば、相像を働かせて補完しようという意識が働いたり、それが基で何か痕跡に気づくかもしれない。加えて、空き地であることから何が読み取れるか、空き地であることから何か生まれたことはないか、と前向きに臨む気持ちもまた必要だ。
大正期の洒落た意匠をもつ栃木病院は、周りが建てこんだ細い道に面して建つが、今は向かいの土地がぽっかり空いていて、栃木病院を正面から眺めることができる。手前には水路が蓋をされているが、水の流れとともに栃木病院を眺められる視点場としたら、魅力的ではないだろうか。
>栃木病院を正面から眺められる。ぽっかり空いた、が効いている例
また、「今は使われなくなってしまったもの」は、その場に留まりつつ忘れられているものと、資料館に飾られているのもとでは、やはり存在感が違う。それらが記憶している、過去の生活の匂いを漂わせている。今回、Nさんの発表では、昔のゴミ箱(ゴミ捨て場)や、役所の17時と22時の鐘の音が思い出される風景のお話しは面白かった。また、個人的に好きなものとして、嘉右衛門町にあるお宅の、店先の壁についた古風な蛇口や、みつわ通りにかつてあった映画館(栃木セントラル劇場、とある)の、上映スケジュールの看板などがある。
>水仕事をよく考慮して造られた店先
>栃木セントラル劇場の看板
思い出話として今回は、「模型屋」「映画館」「駄菓子屋」、他には「本屋」「貸本屋」などのお店や施設が、栃木地区内でもあちこちの町内に分散していたことが面白かった。これらは足をのばせる範囲に、バランスよく配されていたのかなと感じた。また、僕自身としては、「蔵の街とちぎ」というまちづくりの「テーマ型コミュニティ」のイメージで歩くから、改めて町内という「地縁型コミュニティ」の数の多さや、栃木地区内にもまだまだ知られていない地域別の情報があり、交歓する必要はまだまだあるのだな、ということが実感できた。
まちの風景は、もっともっと「飼い馴らす」必要がある。たくさんの人たちの、色んな眼で飼い馴らそう。そのためには、もっともっと散歩をしよう。これを習慣づけよう。夕方のちょっとした時間に、散歩しながら会話を楽しむらしい、イタリア人の習慣は良い参考例だろう。