0711 ウォーキングイベント@藤岡地区

季節がらの雲天のもと、藤岡地区を歩きました。
ここのところ、様々な地域で輩出された近代の実業家が、どのような産業に尽力していたのか、それによって彼らの地元や近隣地域の町並みが、どのように移り変わっていったのか、に興味が湧き、近代の物語を読むようにして町を歩く楽しみを覚えつつあります。
今回の藤岡地区は、岩崎清七が生まれた町。彼は、森鴎村・福澤諭吉渋澤栄一など、歴代の著名人と面識があったとされている。藤岡地区に今も残る生家は、天保13年(1842)に清七の祖父・清兵衛によって、「銭屋」の屋号で、醤油造りから始まった。そして、渡米ののち帰国した清七は家業を継ぎ、明治22年(1889)には東京・深川で創業、米麦類卸売業を中心に扱い、大正8年(1919)に株式会社岩崎清七商店となり、現在に至っている。

(株)岩崎清七商店:
http://www.s-iwasaki.jp/akigyopage0420/sougyoshapro/asougyoshaprofile0420.html


>藤岡地区に残された岩崎清七生家

>同、煉瓦造の煙突、レールも残る

>門柱・腰壁などに煉瓦を用いている


岩崎清七が面倒をみた人物に、宮島清次郎がいる。宮島は、佐野市(旧・安蘇郡飯田町)生まれで、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男である。わざわざここに書いたのは、宮島は1950年に母校・宇都宮高校へ鉄筋コンクリート造の図書館を寄贈、そして当面の維持費まで寄付した。図書館は「報恩館」と名付けられ、現在も学生に利用されている。

宮島清次郎:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B3%B6%E6%B8%85%E6%AC%A1%E9%83%8E


街道沿いの町並みは、簡素な造りの建物が多かったように思う。藤岡地区に詳しい職員の方に伺った話だと、渡良瀬川上流からの順流と、利根川の逆流によって大規模な洪水に幾度も見舞われてきた地域であるため、いつ流される危険にあるか分らない建物には、お金はかけない、贅沢しない、このような慣わしがあるそうだ。
また、隣接する板倉町などに見られる「水塚」は、藤岡地区では見られないそうだ。

水塚について:
http://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage/www_master/int03.html


そしてもう1点、詳しい歴史は分らなかったが、(株)藤岡スレート工業という企業があり、藤岡地区の町並みはセメント瓦を葺いた建物などが多い。


>塗屋造り(見世蔵に比べ塗厚や塗り籠める部位が少ない)町家

>藤岡地区では(現存する限りで)数少ない洋風建築、装飾は見られず小品ではあるものの、藤岡地区の事情を物語る貴重な建物だ



>街道の南端のほうにあった、草葺きの町家


藤岡地区の特色として、水の出る(洪水の多い)地域だったため、街道の通るような旧い土地ほど、周囲より高いところにつくられている。そして、街道も幾度か屈曲したり、多少のアップダウンが見られる。
街道に面して、主屋と門を構えた家が多い。







街道に沿った町並みの裏手は土地が一段低くなるので、そこに建つ家々の2階部分が街道から見えることになる。さらに後背の土地はもっと低く、高地からの見通しが良い。


>街道から見ると、裏手の低い土地に建つ家々の2階部分が見えることになる



>高地からの見通し


また、街道東側の町並みの裏には、かつての花街のような一角があって、趣のある旅館や茶屋だったといわれる建物(僕は今回見逃した)が残る。


>かつての花街のような一角

>旅館の建物

>少し洋風がかった建物


街道から東に行くと繁柱寺というお寺がある。こちらの境内は雰囲気が良く、本堂の前に藤棚があって5月に来るのがオススメだそう。
また、繁柱寺門前を東西に横切る道には、以前は幅の広い水路が流れていて(今は暗渠になっているが)、この道を西へしばらく行くと藤岡神社ある。この神社は鎮守の杜と呼ぶにふさわしい、趣のある神社だった。


>繁柱寺の境内

>藤岡神社参道の古木(けやき)


今回の集合は東武藤岡駅前、駅舎は3代目とのことだが、母屋の周囲に庇がぐるっとまわり、旧くの木造駅舎らしい造りだ。